ダーウィンの悪夢


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『ダーウィンの悪夢』フーベルト・ザウパー監督 記者会見

2006.11.08 @渋谷エクセル東急ホテル

フーベルト・ザウパー(以下、ザウパー):生命にとって、1番危険な懸念は知らないこと、無知だと思います。私は知的な戦いとして、このグローバリゼーションというコンテキストの中で、この仮面を剥ぐ、ということを使命に感じています。
10年前にルワンダで戦争がありました。この何年かの歴史の中で最も非常に残虐でおぞましい事件でした。あの残虐行為は1日で起きたのではありません。長い期間に渡ってラジオ局で準備がなされていました。ミルコリーナというラジオ局からフツの人たちに呼びかけがありました。「ツチ族の人たちはゴキブリだから、ゴキブリを潰せ」というメッセージを流したのです。あの残虐行為はジャーナリズムが生んだ愚かな、おぞましい残虐行為なのです。
私は政治的な傾向のある映画を作っていますが、映画を通して、比較すれば小さな結果ですけれども、似たようなことがありました。この映画についてジャーナリズムの人たちが興味を持ちました。でも、この映画のメッセージは誤解されて「いけない魚がどんどん拡がって、人々を破壊していくんだ」「だからこの魚を食べないようにしよう」という、ボイコット運動が起こりました。そして、(タンザニアという)国のボイコット運動になってしまいました。でも、私が言いたいのは、この映画は魚についての映画ではなく、人間についての映画だということです。例えば、東京でスーパーマーケットにおいてある、どんな製品を見ても、バナナでも魚でも肉でもみな同じような物語があり、破壊的な出来事がその裏にはあると思います。それを見る目を持っているかどうかが問題なのです。
ボイコットがあったということを申し上げましたが、映画を理解する際に誤解が生じたのだと思います。とても残念なことに、そういう誤解はタンザニアでも起こりました。タンザニア政府はこの映画を観て、懸念を感じ、大統領は国民に対して、街頭で映画を反対するデモをするように呼びかけました。ですが、デモに参加した人たちは実際には映画を見ていないと思います。ヨーロッパではこの映画の結果として、魚のボイコットという誤解が起きました。タンザニアではこの映画自体をボイコットするという誤解が生じてました。なにかをボイコットをするならば、愚かな行為をやめるべきです。それが一番大切です。

来日してから多くのインタビューを受けていて、必ず出る質問がふたつあります。ひとつは「この映画では“飢餓”を描いているが死に掛けている人はいない。武器の話はしているが武器自体は映画に出てこない。カラシニコフの映像は出てこない。証拠があるのかどうか見せてほしい」というものです。
もうひとつの質問は「(アフリカに)色々な問題があることは映画を観てわかりました。ではどうしたらいいか教えてください」というものです。
私がアフリカに行って映画を撮ったのはアフリカで起こったことを証明するためではありません。皆さんが既に知っていることしか、ここでは謳っていないのです。「子供が飢餓で死んでいる」「何千トンという武器がこの地域に運ばれている」「エイズで人が亡くなっている」ということは誰もが知っていると思います。私の役割はそれの証拠を探して、証明することではありません。エイズらしき人を病院に連れて行って本当にエイズかどうかを調べる、ということは私の仕事ではありません。みんなが知っている情報・知識を違う形で表現することです。そして、みなさんにより深く理解していただくことだと思っています。
ふたつめの質問ですが、私は解決法を皆さんに教えるためにこの映画を作ったのではありません。ひとりひとりが未知のジレンマの前にいて、それぞれに考えてほしいと思います。問題の本質を見せて、その本質を観客に感じ取るようにしているのです。この映画を観た人は心が急くでしょう。その後、もっと理解したいと思い、何をしたらいいのか答えを見つけたいと思い、誰かに伝えたいと感じると思います。私自身は偽預言者のように「私についてくれば、すべての問題は解決する。アフリカでこうすれば良いのだ」ということをお伝えしているのではないのです。

Q:危険な目に遭った、警察に拘留された、などの撮影秘話や、子供たちとコミュニケーション方法などを教えてください。

ザウパー:毎日が危険な撮影でしたし、毎日、障害がありました。タンザニアの当局がこの映画を作らせたくない、と考えていたからです。ある国に行って、「こんにちは。あなたの国の武器の密輸について撮影させてください。政治について撮影させてください」と言って素直にやらせてくれる国はありません(笑)。
(タンザニアには)合計で4年間住んでいました。その間に色々な出会いや、色々なことがありました。とても複雑なものが凝縮されてこの映画が出来ました。自分の嗜好、感情的な経験を盛り込みました。それは直接的に現れている部分もありますし、間接的に現れているところもあります。なので、この映画は「実際に何が起こっているのか」というドキュメンタリーであるとともに、私の魂を撮ったドキュメンタリーであると言えます。映画に芸術を感じるかどうか、芸術が盛り込まれているかどうかは、その映画を観た人がその映画に恐れや魅力を感じるかどうか、伝えることができるかどうかによると思います。この映画では私自身が恐ろしいと思ったこと、また魅力的だと思ったことを伝えるようにしました。例えば、(本作に出てくる)エリザの声は非常に魅力的でした。彼女の声をより魅力的に聞かせるために、彼女が話すシーンは夜に撮影をしました。また、彼女の死に私はとてもショックを受けました。そのショックを皆さんにも伝えるために、(彼女の死を伝えるシーンでは)そのショックが伝わるような場面にしたつもりです。
特に面白いと思うもの、魅力的だと思うのは一見したら面白くて愚かな、不条理な感じの場面です。よく見てみれば、非常に大陸の現実を如実に描いている場面が好きです。魚工場の事務所でプラスチックの魚がぴょんぴょん飛び跳ねながら、「Don’t worry, Be Happy」と踊っているシーンがあります。そこはぱっと見たら、なんて変なおかしな場面なんだろう、と思います。でも、よく考えてみたらすごく象徴的な意味を含んだ場面だと思います。管制塔でハチをバチンと殺すシーンも、一見、おかしく感じますが、アフリカの持っている現実を表している場面だと思います。そういったシーンは非常に面白く、魅力的でもあり、不安にかられる場面で、とても好きでした。
なので、「客観的にこの映画はアフリカの現実をそのまま映し出しているのですか?」と聞かれれば「NO」と言わざるを得ません。これは「アフリカの現実をそのまま」というのではなくて、「私の目を通して見たアフリカ」が描かれていますから。

Q:具体的には警察に何度捕まりましたか? 「勉強したい」などの希望を語る子供たちのシーンは出会ってすぐに撮影できたのでしょうか。

ザウパー:アフガニスタンやイラクとは危険のタイプが違うので、弾が飛んできてあたるような危険はありませんでしたが、マラリアなどの病気になる危険や警察に逮捕されたり、拘置されたりは何回かありました。あるときは漁業を中心とした島でカメラを没収され、島から出してもらえなかったりもしました。ストリートチルドレンや売春婦たちとのコンタクトは、彼らは白人を見るとすぐに「金ヅル」と思うのですが、そこから接触が始まりました。長い時間とエネルギーをかけて、娼婦であれば話を聞きたいのだということを人間関係を作っていくうちに、理解してもらえました。

ストリートチルドレンたちとは、最初は対等な関係で話は出来ませんでした。子供たちとの接触には仲介者が必要でした。映画の中で出てくる画家のジョナサンです。彼はストリートチルドレンをしていましたが、その後、キリスト教の修道女に育てられたので、英語が喋れて、かつストリートチルドレンたちと直接の友人なので、彼を通して私は紹介してもらい、ジョナサンの友だちだから、ということで子供たちのサークルに入ることが出来ました。時間をかけて子供たちと友人になることが出来たのです。
撮影中に目が回るような感じを持つことが多々ありました。現実のあるシチュエーションから、まったく違う現実のシチュエーションに移る、ということがよくあったからです。昼間に世界銀行の幹部と街で一番高級なレストランで食事をしたその後に、ストリートチルドレンと夜を共に過ごすこともありました。考えてみれば、ストリートチルドレンたちが何故発生しているかというと、世界銀行の発展途上国に対する政策のひずみから生まれてきているわけです。そういった複雑な場面を毎日生きていかなければなりませんでした。

Q:タンザニア政府からネガティブキャンペーンがあった、と伺いましたが、欧米などの西側諸国の政府サイドや情報機関、軍事産業などのビジネスサークルから映画上映に対するプレッシャーはありましたか?

ザウパー:私自身に対する直接のプレッシャーはありません。でも、タンザニア政府によるネガティブキャンペーンの裏には経済的な要因が非常に大きく関係しているし、大統領も彼個人の考えでキャンペーンを行なっているのではなく、企業から、魚が売れなくなるから困る、など言われて、タンザニア政府が動いているのだと思います。間接的なプレッシャーがありました。

経済が発展して、工場が出来て、雇用が生まれるのは素晴らしいことだと政府は言います。自分自身もそう思いますし、本当だと思います。この映画の中でもそういう人たちにも発言を求めています。ただ、問題は確かに雇用を生んでいるけれども、それは一握りの人のためのものに過ぎず、あとの大多数の人はどうなってしまうのか、ということなのです。そういう疑問や仕組みは古代からあるのです。でも、これだけ当局が反発して騒ぐということはこの映画が成功しているということなのでしょう。

Q:この映画の中でとても悲劇的だと思ったのは北側に経済的な富が流れているのに関わらず、精神的には豊かで幸せではないという点です。日本は自殺・うつ病が多く、ある日、職を失い、その日に回転寿司でナイルパーチを食べて、次の日に自殺をする、ということも起こりえます。ヨーロッパも同様だと思います。そんな精神的北側の状況についてどう思いますか?

ザウパー:おっしゃるとおりに、この映画は私たちみんなの社会に関わることだと思います。ある意味では、ヨーロッパの現実を考えるためにタンザニアでこの映画を撮ったと言えます。
ある哲学者が「西洋社会の人の本当の不幸は他の人を破壊していることを知っていることだ」と言っていました。自分たちが生活することで他の人の生活が破壊されている、ということを認識していることは不幸である、と。
もしも、アフリカの独裁者が周辺の競争相手を殺して、権力についたとしたら、その人はゆっくり枕を高くして眠ることは出来ないでしょう。それは、いつかは自分にも同じことが起こるのではないかという恐れがあるからです。そういう恐れが今、地球の社会全体にあるのだと思います。イラクに爆弾を仕掛けて石油を取る、ラテンアメリカの政権は自分たちになびかないから崩壊させよう、とか、どこかで戦争が起こるように、また戦争が起こったら、その戦争がもっとひどくなるように手を加えよう、とか、そういう私たちの盗人のような社会という現実があります。その盗人のような社会が存在している限り、その盗んだことへの報復がいつかあるかもしれない、という不安がずっとあると思います。
日本、ヨーロッパ、アメリカは巨大な富を集めてきて、城壁を建てて住んでいます。いつか、その奪われた人たちがやってきて、その城壁を壊して報復するに違いありません。それを恐れて移民を制限したり、非人間的な法律を作ったりして自己防衛をはかっているわけですが、いつか奪ったものは取り返されるし、奪われた人たちはそれを取り戻そうとするでしょう。もしかしたら10〜15年したらビン・ラディンのことを「あぁ、あれはちょっとしたテロリストに過ぎなかったね」といわれる時代が来るかもしれません。それくらい、世界中でテロリストがどんどん増えています。私たちは知らず知らずのうちにとても怖い社会を作り上げているのかもしれません。

Q:制作期間・製作費用はいくらですか? また、グローバリゼーションについての映画は以前から作りたかったのでしょうか。

ザウパー:私はグローバリゼーションについての映画をずっと作りたいと思っていました。 4年間ずっと(タンザニアに)住み続けたわけではなく、その間、(ヨーロッパとアフリカを)映画で出てくるイリューシン(ロシアの飛行機)に乗って行き来をしていました。撮影期間は全部あわせて6ヶ月です。撮影予算は金持ちが1回のバカンスで使う程度の額です。非常に少ない金額です。

Q:この映画に対して、批判的な見方もあると思います。例えば、ナイルパーチが悪者なのか、タンザニアはナイルパーチが入る前からストリートチルドレンや娼婦がいて、飢えていたのではないかといった点です。物語はナイルパーチを中心にして、話が進みますが、そうでなくても貧しいのではないかという批判に対してどのように回答なさっていますか?

ザウパー:とても深い疑問提起だと思います。実際にヴィクトリア湖周辺に住んでいる人たちがナイルパーチが入る前から貧しかったかというと、少なくとも、ヴィクトリア湖の魚を食べていた人たちはそれまで飢餓で死ぬことはありませんでした。ですが、工場ができたことで、今度は「飢餓で死ぬ」ことが起こるようになったのです。貧しいかどうかについては「貧しさ」の定義にもよると思います。「マッキントッシュが買えないから貧乏」なのかどれくらいが貧しいのか。今、問題となっているのはヴィクトリア湖周辺の人たちは最低限の食べ物を得ることが出来ない、ということです。一方でお金持ちがいて、この魚が売れることでお金を得て、高級車を買えるようになった人がいるのも事実です。それはその人にとって良いことです。また、ヨーロッパや日本の人が、この魚が輸出されることで美味しい魚を食べることが出来るようになった。それはいいこと、ポジティブなことです。でも、世の中にはひとつの事実がある場合、必ずポジティブな面とネガティブな面が同居しています。すべてがネガティブだと言っているわけではありません。ただ、ポジティブな面の方が見えやすい、誰の目にも付きやすいのです。例えば、誰かが高級車を購入したことは誰でも気がつきます。あるいはダルエスサラームの街にビルが建ち、豊かになったことは見えるのです。でも、その陰で静かにエイズで死んでいく子供は見えないのです。そういった目に見えない部分を見せるのが、自分の役割だと思っています。普通なら見えない、隠れているものを見せたい、というのが私の気持ちです。ただ「悪いところを見せる」のではありません。自分が感じとったことを皆さんに見せたいと思っています。皆さんに存在しなかったものを私は自分の媒体である映画を通して存在させ、皆さんに感じ取ってもらうことをしているのです。私の撮る映画を通して、皆さんが何かを感じて、考えたい、思考したい、と思ってくれればそれで満足です。

 

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