ナセール・タグヴァイ
インタビュー

○ 『キシュ島の物語』の映画製作依頼が来たとき、すぐに引き受けることを決めましたか?

 私のところにマフマルバフが映画製作の話を持ってきました。元々、彼とは仲が良かったので、私は快諾しました。また、製作に関する条件もすごく良かったので、OKすることが出来たのです。彼とは何年も前から一緒に映画を作りたいと思っていたのに、なかなか出来ずにいました。そんな時だったので、これはとてもいい機会だと思いました。
 映画監督の頭の中には短編のアイデアがいつもあるけれど、なかなか作る機会も、作っても世に出す機会もありません。一人だけで短編を撮るよりも、何人かが集まって発表出来るのは良い機会だと思います。イラン映画の基本は短編にあったし、そういった土壌がしっかりしていたので、良い長編のドラマが撮れるのです。だから短編映画を大事にしなくてはなりません。ドキュメントと違って、ストーリーを持った短編は、子供を扱ったものが多い。私も一人でレポートを撮り、ドキュメンタリーを撮り、短編を撮り、劇映画を撮り、テレビドラマを撮ったりと色々な仕事をしました。その中で、最も好きな仕事は短編の製作です。面白いのでいつも心に残ります。

○ それは短い時間の中に一人一人の個性を入れるから短編は面白いのでしょうか?

 新人は短編の製作により、自分の腕や、人々の受けを見て、それから長編を作るのが正攻法といえるけれど、それだけがメリットではありません。短編でも長編でもそれぞれ自分のやり方や規則がしっかりとあります。作家も連続小説を書くときに、長いものを書く人もいれば、短いものから書く人もいる。映画にもどちらのタイプの人もいます。短い小説を書かなくてはならない、ということがないのと同様に、映画にも規則なんてありません。でもそこには、コツとヒミツがあります。長編を書くときは、話が終わると同時に映画が終わるように作りますが、短編は違って、フォームが大切なのです。なので、ストーリーではなく、短編は形が終わると終わります。詩のようなものです。だから、ラストシーンが難しのです。短編は話が終わっていなくても、素敵な終り方をするときがある。詩のように見ている側に余韻を残す、考える余地を残すのです。

○ 『ギリシャ船』は文明社会に対する批判なのでしょうか?どういった文明に対して、この作品は位置しているのでしょうか?

 人間が怖がるのは未知のものです。映画の中で段ボールが流れてくるのは非常に小さな村です。その村では人々はとてもシンプルに普通の生活をしていて、複雑な外の世界を知りません。全く知らないものというのは、物が怖いというよりも、本質的に怖いことです。現代文明が怖い、というよりも文化がないところに文明が入る時、意味を伴って入らずに、形だけで入ってくると、人を襲う力を持ってしまう。今でも西洋文明を怖がる東洋の土地は多い。そんな時「西洋文明が襲ってくる」という表現をします。段ボールの製品名をわざとその村の人々は使っていないもの(ビデオなど)を使ったのはそのためです。西洋で作っている製品が入ってくるが、その製品を作る知識は持っていない。ユーザーでしかなく、表面的なものです。その製品が何に使うべきものなのか、本質が分かっていないのです。西洋文明が東洋に入ってくる時、影響を及ぼすけれど、東洋の文明を壊すような形になってしまう。本当の“文化”の意味を理解していないのです。製品の魅力に麻痺されてしまう。車や電話など、西洋から来ているけれど、使い方を間違えていると思います。それは精神的な問題となり、病を呼びます。簡単には治らないような、恐ろしい病気です。映画の中での治療法をザールと呼びます。

○ ザールとはどういったものですか?

 アフリカから来た治療法です。精神的な病気で音楽のリズムにのせて病気の原因を探り出し、治しますが、一時的にしか治りません。でも、薬では全く治らない病です。この病気には色々な種類があります。治し方は様々な音楽のリズムをならすと、病人はどれかのリズムで踊り出す。それを何度も試します。リズムには名前があって、病人が踊り出すリズムがその病名です。ネイティヴは病人のことを“空気”と呼びます。空気は見えません。妖怪なども見えない。病人が踊りを止めるのはある程度治ったということ、そして喋り出します。儀式を行う最も偉い男性をパパ、女性はママと呼ばれます。どこで踊りだしたのか分かっていると、何を病人に聞くのかもわかっています。何をすれば治るのかも分かっているのです。病人が喋り出すときは、突然他言語を話すときもあります。子供の声で話し出すときもあるのです。パパはほぼ全てのことが分かっており、どんな言葉も分かっています。2年前、スイスにザールについて詳しい先生がいて、ザールは何かを強く信じることで治ると聞きました。宗教病ではないが、宗教的なセレモニーで治していました。映画の中で見られる儀式は現実に行われているものに非常に近いものです。

○ そのザールを『ギリシャ船』では描いているのですね。

 イラン哲学では、3つの世界を信じています。1つ目のは天上の世界です。誰も見たことのない世界、神のいるところ。2つ目は地上の世界。ここに住む人々は、必ず一人一人魂を持っています。人も木も全てです。そして3つ目は魂だけの世界。ザールはそこからくる病気です。3つ目の魂は人間の体の中に入ってきます。元々は形の無い物が人間などの中に入って、その魂が自分の姿を見せるのです。映画の中で段ボールに例えている西洋文明は。そういった魂だと思えば分かりやすい。地上の世界にやってきて、自分の体を探している、どれが自分のものか分からないから、とりあえず勝手にだれかの体に入ると、その体は病気になる。すると、出ていってまた別の体を探す。その例えが『ギリシャ船』なのです。SONYなどはとても怖い存在です。映画作家は作っている映画の中に魂を入れていきます。魂のために形を作っているわけです。そう考えると俳優は魂を入れる容器ということになりますね。

○ つまり、夫は西洋文明に自分たちの文化を壊されていることに気づかない、妻は気づいていない、という表現なのでしょうか?

 彼女と彼の違いは生活の違いです。夫は海を尊敬しています。海は仕事なのです。海からやってきたものを売って仕事にしています。そういう目で海から来るものを見ているので、気にならない。お金としか見えていないのです。ビジネスしかしていない人にとっては、それを売ったらどんな影響があるか、文化的影響なんて、考えていないのです。でも、それを考えている人もいる。第六感が働く人たちです。外界から来たものが社会・精神にどういう影響を与えるのか考えている人たちもいるのです。

○ では、妻は第六感が強いということでしょうか?

 そうですね。非常にセンシティブであるといえるでしょう。西洋で作られているものは西洋にとっては必要なものですが、第三世界には不要なものが殆どです。そういった物に関する知識も必要ありません。お金持ちの人はそういった製品を買うけれど、パソコンはタイプライター代わりに過ぎず、本来の用途を成していません。あってもなくても変わらないのです。  日本も非常な産業国ですね。物を発明した国にとっては必要だったのだから、どんどん発達していきますが、そろそろ疲れてきて、自然に戻りたいはずです。今造っているものは病気を運ぶものにすぎません。これからは自然に戻りたい、昔は良かったと、いう人たちが増えるはずです。日曜は携帯電話やテレビから離れて、自然の元へ行くとその後とても気持ちがいい。人間が自然に返りたがるのは自然なことです。私自身が現代社会に反対しているというわけではなく、快楽と引き換えに人間性を奪われているような気がしています。

○ 映画はありで、携帯電話は要らない、という線引きはどこでするのでしょうか?

 全世界をデジタルなハリウッド映画が襲ってきています。それらからデジタルな部分をとったら何も残りません。でも、ハンディカメラ一つで作られた映画の方が大きなことを考えています。実際、発達する前のプリミティブな時代の方が、映画は芸術的でした。デジタルを作っている人たちはクリエイティブだとは思いません。現在の映画産業は第7の芸術ではなく、第8の芸術です。テクニックが高い映画は道具が必要です。でも、それは芸術的とは言えない。作家はペンと紙さえあれば、良い作品が書けるのです。

○ 日本映画についてどう思いますか?

 日本は世界で一番良いものを作っています。映画も同様です。古い世代の監督は古いカメラでも、良い作品を撮っていました。今の日本は映写する機械を作っていても映像作家を作っていません。日本の観客は非常に若い人が多い。見ている映画もとても芸術的です。だから次の世代は良い監督が必ず誕生するでしょう。未来は明るいと思う。日本は島国なので、狭く閉ざしていました。今の若者は目を開いて、世界を見ているし、映画産業だけでなく、道具にも心を開いています。

○ 映画の力とはなんなのでしょうか?

 映画は魔法を持っていて、ホール内で1000人が映画を見ていて、一人が映画を理解したとき、その人の呼吸で、映画は理解が可能になります。一人で家で見るのはテレビであって、映画ではありません。大勢で見る楽しさをみんな、分かっているのです。映画館は永遠に消えません。芝居も消えません。それが映画の底力です。日本で、自分の映画を見ていたとき、みんながイラン人と同様に理解をしていました。すごくイラン的な映画にも関わらずにです。それが、映画の魔力なのです。人間は自分の目を信じています。その国の映画を見ていると、その国の人の気持ちになります。関係ないところのこともわかる素晴らしい芸術なのです。小津の映画を世界中の人が見れば、日本人の心がわかるでしょう。今回、初めて日本人と会いましたが、小津の映画を見ているせいか、初めて会った気がしませんでした。他の芸術には何千年もの歴史があるけれど、たった100年の歴史しか持たない映画も古い歴史があるように感じます。映画祭で評判が良いのは、その国の文化が反映しているものだからです。イラン映画には文化が反映しているものが多いので、世界的に評価されているのでしょう。昔は資本を出して映画を作るのは自国内のみでしたが、映画産業は力を持ってきて、他国に対しても資本を出すようになりました。それは、世界中みんなが同等に映画の力を理解するようになったからと言えるでしょう。

○ 北野武の映画なども見ていますか?

 若い監督の映画はイランには入ってきていません。この東京国際映画祭の数日間の間に黒沢清の『カリスマ』を見ました。それは何年も前の映画に存在していたとても強い映画の力を感じました。『踊る大捜査線』は今一つでした。娯楽的な作品。
 どんな作品も観る権利も、作る権利もあります。娯楽的な映画も芸術映画が根源にはあります。そういった映画がお金を稼ぎます。でも、資本が大変です。芸術的な映画がないと商業的な映画もない。商業と文化は相容れない関係なのです。イランの映画は90%が商業的なもので、その中の1割ほどしか売れない。文化的な映画は10本に1本が芸術的といえるもので、それはその国の文化に基づいているから一生心に残ります。商業的な映画はすごく売れていても3〜4回見たら飽きてしまいます。芸術的な映画は一生新鮮なまま残ります。50年前の映画を見ても今も素晴らしいと思えるのです。

○ 監督の目に、現在のイラン映画界はどう映りますか?

 今のイラン映画の状況は非常に珍しいものです。1960年代の始めにタグヴァイ、キミアイー、メールジュイが出てきて、芸術的な映画が作り出されはじめました。その後直ぐに、ナデリ、ベイザイ、キアロスタミが出てきました。3〜4年の間にすごい映画人が映画を撮り出したのです。現在、革命後の世代と、今も映画を製作している何人かは一緒に映画を作っています。それは世界的に例を見ないことだと思います。15人ほどの有名な監督がいて、年齢もスタイルもすごく違います。ハリウッドを見ていると、SFが売れると偉大な作家もSFを作る。お金がいっぱい入るからです。イランではそういったことは起こりません。誰かが成功してもそれを真似するのではなく、もっともっと自分の映画に力を持たせようとする。世界に例がありません。イタリアは少しそういった傾向があるかもしれません。イランの良い監督は自分でシナリオを書くからでしょう。メールジュイの『牛』などのライターは有名な人でしたが、検閲に引っ掛かり、シナリオが書けなくなっていきました。それで、メールジュイはどんどん自分で書くようになっていきました。イラン人は台詞を書くのが上手いのです。

○ 他の監督達と連絡をとっていますか?

 この映画の三人では、映画の話はしていませんが、ロケ地が異なるように話はしました。キシュ島側は“キシュ”の文字が入るだけで、宣伝になると考えていました。『キシュ島の物語』が世界を廻っている。それによって、世界の人々がキシュ島の位置を知るようになってきました。フリーマーケットで世界製品がある。観光局はキシュ島の位置を知ってもらうことが目的だったのだと思います。お互いに始めはこのプロジェクトを喜んでいましたが、プロデューサーは映画人ではないので、海外からオファーが来た時、直ぐに売ることしか考えませんでした。それが互いの関係に悪影響を及ぼしました。しばらくは一緒に撮らないかも知れません。そのせいで、撮影が終了してからみんなで一緒に集まったりはしていません。将来的にはまたみんなで集まれれば良いと思っています。でも、6本を全て同時に公開して欲しかったと思いますね。

○ 『キシュ島の物語』で競作した二人についてどう思いますか?

 『ドア』『指輪』共にそれぞれ、世代の違いは映画に現われています。ジャリリ、マフマルバフは革命後の人で、彼らの映画作りを見ていると、慌てていたり、発見したりしているのがわかります。映画をただずっと見てきた人とは違います。特にマフマルバフは出て来かたが他の人とは違いました。自分のアイデアを表しているから、宗教と芸術が混在していないのです。映画人はその人が何歳なのか、何本の映画を撮ったかは、関係ありません。マフマルバフは沢山撮っていますが、いつも違うし、成長しています。マフマルバフの映画は以前は宗教的でしたが、現在の映画について論議されています。ですが、それは当然の変化です。どんどん美しくなってきていると思います。『ドア』は中でも最も美しい作品だと思います。私は非常に感動しました。ジャリリは今も発見しながら進んでいるところだと思います。はじめから彼は社会問題を扱っていますね。『指輪』でもそうです。いつも通りの作品です。『かさぶた』もそうでした。ジャリリは今また原点に戻っている気がします。自分の問題でもあると思っているから単純なネタですが、ずっと扱い続けているのでしょう。イランでは、彼は幾つもの波を超えています。