Bitters End
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『素敵な歌と舟はゆく』
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インタビュー < 素敵な歌と舟はゆく
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オタール・イオセリアーニ
インタヴュー

どうして『Adieu,Plancher des Vaches!(息苦しい地上にお別れだ!)』[『素敵 な歌と舟はゆく』の原題]なの?

 「Plancher des Vaches (息苦しい地上=雌牛どもの床)」という言い回しは、昔の船乗りの言い回しで、狭い地上に対するいくらかの軽蔑が込められて、地上を離れる ことの幸せが表明されている。船乗りにとって、狭い地上とは、海にいて、長いこと 過ごした海にうんざりする時、常に魅きつける場所なんだ。その地上を離れ、あらゆる悩みから解放されることを人は空想したが、海とはそれほど長く暮らせない場所だ ということはよく分かっている。海では、広大な外海が、次第に、郷愁の念、帰郷へ の欲望を生み始めるんだ。そんなふうに、船乗りが自分の軽蔑する「雌牛どもの床」にいる時は、そこを離れたいと夢見るくせに、海にいる時は、時間が経つと、あそこは素敵で快適な所だったと思い始める。そこで、この映画は「雌牛どもの床」の上で暮らすわれわれの心に巣食う、不平不満の感情についての寓話なんだろうと予想される。
 実際に、誕生以来、われわれは、あらかじめ宿命づけられた殻に閉じ込もって生きることを強いられ、各人がその殻を抜け出て、どこかに確実に存在する別の場所、人生の別の側面を見出すことを夢見ている。そこから昔のことわざが生まれた。「よそは 常にここよりいい」。

もうひとつの題名が想定されていたわね。『私のツグミはもう歌わない!』。 今のフランスの若者の状況は、あなたの国グルジアのあの頃[60年代〜70年代初頭『歌うツグミがおりました』の頃]より悪いと思う?

 観察可能なかぎりのあらゆる時代の若者の特徴は、自分の人生がロマンティックでヒロイックで精神的に豊かな局面に満ちあふれるだろうという幻想と希望だ。今、多くの若者が、あまりにも早く、われわれの社会を脅かす危険に気づくとみなされている。不幸にして、闘わなきゃならないこと、インチキをしなきゃならないこと、嘘をつかなきゃならないこと、きつい仕事をしなけりゃならないこと、未来は思っている ほど期待できないこと、陽の当たる場所を奪い取るためには一所懸命に努力しなくちゃならないことを、この地球のどこであろうと、若者は素早く学ぶ。陽の当たる場所で身を固めたら、たぶんその後は、安泰で、本当の人生を始めることができるだろうと若者は考える。ところが、「身を固める」ためには、取り返しのつかない沢山の不正を行なわなければならないということを、みんな、よく知っている。不正行為を犯した後は、別の生き方はほとんど不可能になる……。無意識のうちに、若者は、14−5歳から、この何らかの秩序を予想するに違いないと、私はほぼ確信しているよ。この映画では、その諸問題の悪循環の表面を上滑りするが、深い所には関係しない。というのも、もし深入りすれば、まったく別の映画を作らなければならないからだ。それは、今回は、われわれの意図するものじゃない。

つまり真面目な、あるいは政治的な映画ってこと?

 政治的映画を作ろうなんて思ったことは一度もないね。というのも、自分はそういう素材の専門家だと思っていないからだ。私が知っているのは、自分が、恵まれない人々の側に立っているということ、自分は、他人の不幸につけこむ商売人や社会の寄生虫が大嫌いだということだけだ。真面目ということに関しては、映画監督という職業は、その仕事に軽さを取り入れるには重労働だし、辛すぎる。私の愛する、同業者たちの映画は、きわめて真面目に考え抜かれた成果なんだ。特に、滑稽で、のんきな雰囲気がある場合はね。

フランスの資本主義および民主主義社会は三十年前のソ連の社会より苛酷かしら?

 生活の二つの形態を比べることは不可能に近い。実際、私が知っていたようなボルシェヴィキ主義は、われわれの多くにとって息苦しいものだった。その反面、すっかり福祉の恩恵に授かっている中流階級の人々は、そう言ってよければ、生物学的な生を穏やかに過ごしていた。同じように物質的に保障された、彼らの子供の大半には、全員の幸福を理想とする彼らの夢想に従って、社会を変えようと願いつつ、政治闘争に身を投じる時間的余裕があった。
 私の友人の多くにとって、そうした危険な活動は、ボルシェヴィキ主義の息苦しい袋小路の喜ばしい突破口だった。西側の民主主義は、汚職も検閲も国境もなく、とりわけ物質的な悩みのない天国だと、われわれは想像していた。同世代の共産主義者、トロツキー主義者、毛主義者、無政府主義者の闘士は、鉄のカーテンの反対側で、天国は東側の国にあるのだと想像していた。今では、それは古びたジャコバン体制[中央集権的共和主義]の夢想だと思う。当時、私の国では、それは反体制と呼ばれてい た。反体制分子はロマンティックだった。彼らは孤高の騎士で、誇り高い彼らの行為は無償で慈悲深いものだった。それは、破局を迎えた。共産主義社会が解体されると、もっとひどい別の権力、野蛮な資本主義の権力が出現し、生活はより苛酷で暗くなり、突破口はなくなった。ボルシェヴィキ主義の崩壊後、すぐに抱かれた、われわれの幸福の夢想は、不幸にして実現されていない。
 そういうわけで、この映画では、登場人物を、夢想が事実上存在しない社会に根付かせた。そこで基調となっているのは、将来、明日への不安だ。

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父親役の人物がその世代ね。失望につぐ失望から酒に逃避する……。

 たぶん、あの男性は、古い警句「すべては空しい」の安らかな意味を理解できるようになったんだ。たぶん、無意味なことをするくらいなら、何もしない方がましだと思っているんだ。それは必ずしも、失望した男の意見ではない。自分の中で目覚めた、何かをしたいという欲求から、彼は、自分をなだめるためのゲームを思いついた。列車、というよりも、複雑ないくつもの曲線を経て出発点へと戻ってくる複数の鉄道便 だ。
 黄金の檻に閉じ込められた金持ちの浮浪者は、そこでもう一人のもっと賢い、というのも何も持っていない浮浪者と交差する。その時、二人の男性の間に友情と愛情が生まれる。彼らは、あらゆることを体験し、あらゆることを目撃し、[ラテン語の格言 (『群盗、第七章』の別題)]「葡萄酒の中に真実がある(酔うと本性が現れる)」だけを知っている……。
 酒の広告の下に「あなたの健康を損ねます」と説明する偽善的な文章が小さく入ってるがね。健康を損ねるのは、酒じゃなくて、日常的な苛立ちと、同好の士と穏やかな 会話をする時間がもてないことが原因だ。要するに、「スピリット(霊、酒)」「スピリチュー(アルコール度の高い蒸留酒)」「スピリチュエル(霊的)」が同根を もつというのがすごく気に入っているんだ。二人の年老いた浮浪者が酒を飲むのは、 葡萄酒が、人々を互いに結びつける唯一の高貴なものだからなんだ。金持ちと貧乏人は一杯の酒に関して平等だ。そうやって、人間らしさが存在し続ける。

何が人々に変装を強いるのかしら?

 ゲームの規則だ。「修道服(衣服)が修道士を作る(人は見かけによる)」[「修道 服が修道士を作るのではない(人は見かけによらない)」という格言のもじり]し、われわれは自分を自分以上のものに見せかけるよう圧力をかけられている。その規範 を守らない者は、狂人と思われるおそれがある。  この映画の登場人物にとって、それは致命的な王手だ。この映画の主題でもあるけど、仮面のゲームが何かをもたらすんだと誰もが想像する。[城館に住む金持ちの青年ニコラと鉄道清掃員の貧しい青年の]二人とも、どちらかと言うと臆病で、嘘つきだ。金持ちは貧乏人を装う。現行の生活様式を味わうための方法としては目新しくはない。貧乏人は自分を排除する社会で動き回るために金持ちを装う。

どうして現実の舞台で無名の俳優を使って撮ったの?

 有名な俳優を使って撮るということは私にとって、撮影所の中に建てられたアメリカ西部の村に入ることと同じなんだ。  でも、パリでもどこでもいいけど、大都市で撮る時は、「リアリズム」にはこだわらない。自分たちを取り巻く都市から、自分たちに合った、たぶんその都市のリアリティとは何の関係もない舞台を引き出すんだよ。たとえば、コンスタンティノープルに行った時、その私にとってのリアリティとは、ある通り、ある橋、ホテルの私の部屋だった。それ以外は、私の視野の外にあった。そうした要素に基づいて、私は自分にとってのコンスタンティノープルを想像することができる。私がパリで探し求めたものは、たぶん、まったくパリじゃない。たぶん、トビリシでの私の幼少期や、モスクワでの私の青年期、あるいはこのパリでの私の初期に相当するものだろうね。私は、自分の登場人物を住まわすために、ある種のパリを想像したんだ。

あなたの映画の観客はどんな人たちだと思う?

 映画を撮るのは自分と似た人のためだ。知らない人に手紙を書いたりはしないよね。自分の映画が、贈り物、会ったことはなくても、当然、自分と同じ意見を持つ誰かへの贈り物になればいい。私にとって、幸福とは、誰かが私が思いついたのと同じ発想を口にすることだ。映画を見て、本を読んで、「嬉しいな、自分と同じ考えだ!」と思うよね。それは、自分が白痴じゃないということ、それにとりわけ自分が一人きりじゃないことを意味する。  でも、ある贈り物が受取人に届けられるには、残念ながら、商人たちの手から手へと手渡されなけばならない。そう思うと嫌になる。私の観察するところ、至るところで、次第に、人々の関係がますます冷たくなり、「君が私に売ることができるもの、私が君に売ることができるもの」が決定するようになってきている。たとえば、パリは五階建て、六階建ての都市だ。一階はどこも商売人が占拠しているし、その連中はどこかの階に住んでいる。そうやって、何も作らず、何も生み出さない人々に二つの階を完全に占拠させている。嘆かわしいよ!

(プロデューサー、マルティーヌ・マリニャックの採録した談話より 1999年4月)