◆監督インタビュー◆

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◆自分の中のもどかしさを、ただ吐き出したいという思い。
――この作品を作ろうと思ったきっかけから教えてください。
「自分は家族との間に問題を抱えていて、自分の中のもどかしさを、ただ吐き出したかったんです。映画を撮り終わった後で、それが何だったのか少しずつわかりはじめました。まず、韓国の歴史的な背景を見たとき、“国”が私たちの父親や母親の世代の心に傷を負わせてきたという認識があったんです。父親は国の発展のため、家族のことは二の次でお金を稼ぐ機械のように扱われてきた。じゃあ、母親はどうだったかというと、小学校までしか通っていない人も多く、子どもを教育する余力がない。それでも母親には子どもたちと一緒に暮らしている一体感がありますが、父親には家族との意志の疎通がなく、かといって外に行っても確固たる地位があるわけじゃない。でも、国の復興という大義名分のために働く必要がある、そういったゆがんだ家族像が、実は韓国では広く見られるんです。となると、当然いろいろなトラブルが起きますよね? 私もそういったひずみの真っ只中を生きてきて、もやもやしていたんです。でも、悩んでばかりもいられないので、この作品を作ろうと思ったんですね。ただ、映画を作る前からこのように考えが整理されていたわけではなく、撮り終わったあとでいろいろと振り返ってみて、自分がこの映画を撮ったきっかけが少しずつわかるようになっていったんだと思います。結果、この映画はサンフンの物語のようでもあるんですが、実は父親の物語だったような気もしているんです」
――ヨニの父親はベトナム戦争に派兵された過去を持っていますが、そのような社会的な背景が“家族”というテーマの裏できっちりと描かれていますね。
「かといって、私はさほど賢い人間ではないので(笑)、ただ自分が見てきたもの、知っているものを映画のなかに投影させただけです。例えば、社会のことなんて何も知らない子どもの目線で、子供が見たものをそのまま描くと、そこから社会が見えてくる。それと同じことなのかもしれません」

◆愛なのかもわからずにひかれ合う、サンフンとヨニ。
――同時に、サンフンとヨニが心を通わせていく過程が、とても切なく描かれていると思いました。
「イ・ミョンセ監督(『デュエリスト』『M』)からも『非常に切ない愛の物語を観た』と言われたんですが、自分としては二人の愛の物語を意図的に入れようと思ったわけではないんです。おそらくサンフンとヨニ自身もその気持ちに気づいていないかもしれません。むしろ観客の方が二人の気持ちをよく理解できるんでしょうね。もちろん互いに魅かれあっているとは思いますが……」
――では、サンフンとヨニは互いのどんな部分に魅かれあったのだと思いますか?
「おそらく二人は狼のようなものなんです。一匹狼というくらいで、狼は一匹で行動することが多いですよね。でも、そんな狼でも寂しさや恐怖心を持っていて、別の狼に出会ったとき、初めは警戒するけれど、その狼が自分と同じ悲しみを持っていることに気づく。似たもの同士が出会ったときに生まれる奇妙な一体感を、二人は感じたんだと思います。ふたりはとてもおかしな状況で出会うじゃないですか。ツバを吐いたり、殴ったり、でもそれは自分に似た存在を見付けたという感覚だったんだと思います。ふたりはあまりに近すぎて、自分の気持ちが一体感なのか憐れみなのか、それとも愛なのか、よくわからないんです。もし二人が何にも囚われずに生きていたら、それが愛だとわかったかもしれません。彼らは自分の置かれた状況をはっきり理解しながら生きてきたわけではないし、自分の現在の人生にあまりに追われ過ぎていて、怒りやもどかしさを抱いていても、その原因や理由にまで思いを馳せることができません。それでも、二人は物語が進むなかで好奇心を芽生えさせ、もしかしたらこれは愛かもしれないという気持ちに至りますが、その瞬間にあの悲劇が起きてしまうんです」

◆人生は一度きりのもの、幸せを願う気持ちがなければ生きていけない。
――ここに描かれる愛は、いい換えれば希望や救いに近いもののような気もします。サンフンは物語が進むにつれ、愛と同時に希望を見出しているように見えますね。
「サンフンが最期に見る過去のさまざまな映像――あれは希望と受け取ってもらってもいいのかもしれません。おそらくサンフンは幸せに対して恋しさを抱いていたんですね。その幸せを願う気持ちが最期に出ていたんじゃないかと思います。人はどれほどどん底にいても、幸せの記憶がなければ生きていけない。サンフンだって非常にハードな生き方をしていますが、それだけなら絶対に耐えられなかったはずです。彼が先輩のマンシクと交わす他愛のない会話やファンギュを小突いたり殴ったりするのも、彼にとっての小さな幸せなんでしょうね。ただ、ことあるごとにヨンジェを殴っていたのはまた別の意味があって、あのように暴力的に接することで、彼はもうひとりの自分、よく似たもう一匹の狼に対して、悪の道に入らないよう諭していたんだと思います」
――確かに、サンフンの一見暴力的に見える行動には、さまざまな思いが潜んでいます。
「オープニングで、サンフンは女性を殴りながら“お前、殴られてばかりでいいのか?”というようなことを言います。あれは、実は自分の母親に対する気持ちが反映されていたと思うんです。彼はかつて、自分の母親の姿を見ながら本当に痛々しい思いをしていますが、本当は同じことを言いたかったんです。“殴られるばかりじゃなくて、父親と別れればいいじゃないか”と。父親に対しても暴力をふるいますが、本当は“なぜ、家族をこのような状態にしてしまったのか?”と言いたかったんだと思います。でも、サンフンはまともな言葉を習得していないので、罵倒する言葉や暴力しか出てきません。彼は獣の言葉しか持っていないんですね。そんな彼はやはりとても哀れな人物なんだと思います」
――この映画は監督の非常にパーソナルな思いが反映された作品のようですが、だとすればサンフンが希望や幸せを求めるようになっていく過程は、そのまま監督自身の思いと重なると考えていいんでしょうか?
「実は最初の構想では、サンフンは最初から最後まで一回も笑わず、一回も泣かず、徹底的に悪の限りを尽くすキャラクターだったんです。ところが、シナリオを書きながら自分の気持ちが変わっていったんですね。果たして、サンフンは40歳、50歳になるまでずっとあのままでいいんだろうかと。それでサンフンの心の変化も描こうと思ったんです。人生は一度きりのものだから、できることなら幸せを望んだ方がいいんじゃないか、そう思って最終的にこういうシナリオに変更しました。私としては、自分の本心をすべてこの映画に注いだつもりです。もし、この映画を20代のころ撮っていたら、あるいは現在撮っていたら、まったく違う映画になっていたんでしょうね。悩みに悩んで、自分の悩みを全部出し尽くした映画なので、ここには2007年当時、32歳だった自分の気持ちがすべて表現されているんだと思います」

インタビュー・文:門間雄介(2009.11 東京にて)