Bitters End
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『月曜日に乾杯』
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インタビュー<月曜日に乾杯
BITTERS END shopping gallary
“私は作品の話をしたいとは思うが、それは決して作品の説明にはならないだろう。なぜなら、語るという方法を用いると映画から離れ、言葉の領域に入り込んでしまうからだ。もし私自身を表現するのに言葉を使わなければならないのだとしたら、私は映画監督ではなく作家になっていただろう。映画はもうひとつの言語だ。私の舌は、私が言いたいことすべてを系統立てて話せるほど十分には言うことを聞いてくれないのだ。”
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マルティーヌ・マリニャック(以下MM) 前作『素敵な歌と舟はゆく』では父親の旅立ちで物語が終わり、『月曜日に乾杯!』では父親の旅立ちから物語が始まるけど、『月曜日に乾杯!』は『素敵な歌と舟はゆく』の続編なの?
オタール・イオセリアーニ(以下OI) 『素敵な歌と舟はゆく』の父親は、城のような屋敷での生活にがんじがらめにされ、別の人生を生きたくなって旅立った。『月曜日に乾杯!』に描かれているのは日々の暮らしの単調さだ。工場に働きに行き、仕事を終えて家に帰る。友人との交流も十分でなければ人間らしいふれあいも欠如している。工場で働くヴァンサンはそんな単調な日々の繰り返しにもう耐えられないんだ。つまり、今ある状況に文句ひとつ言わず、反吐が出そうな化学工場での仕事のために毎朝ベッドから起き出さなければならないことにね。夜になって家に帰ったところで、くつろいだ楽しい時間が過ごせるわけでもない。というのも彼がいない間、家族にはそれぞれの生活があって、そこに彼はほとんど関わっていないからだ。映画はこういう設定で始まるが、作品のテーマは、ずっと夢見てきた幸せを探しにどこか別の地へ旅立つということにある。
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MM: 一方で、2つの作品(『素敵な歌と舟はゆく』と『月曜日に乾杯!』)の違いは、ヴァンサンという登場人物の社会的側面と言えるわ。彼は家庭で感じる以上の疎外感を社会に感じているわね。
OI: この作品は、社会的な分析というより孤独であることの不幸を描いた寓話なんだ。ヴァンサンは孤独な人間だ。彼の父親も母親も、独りきりで家にいる妻も、彼の子供たちもみな孤独で、ヴァンサンが遠く離れた地で出会う友人たちもまた孤独だ。唯一、孤独ではない瞬間は、ヴァンサンが友人たちと過ごす楽しいひとときだ。しかしそれもほんの束の間のこと。なぜなら友人たちはすぐに自分の生活に戻って行ってしまうからだ。『月曜日に乾杯!』は私たちの孤独を見つめる寓話だ。近頃では“人との結びつき”というと金銭絡みのイメージがどうしても付いて回るが、それは本当の結びつきではない。本当の結びつきとはつまり友情や分かち合いで、誰かの友人であることを喜んだり、その誰かと幸せな時間を過ごしたり、生きていて幸せだと感じたりすることなんだ。
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MM: 『月曜日に乾杯!』には家族が描かれているけど、それは夫と妻にはもう会話がなく、子供たちは両親とコミュニケーションをとろうとしない、今どきの家族ね。
OI: 私は、子供が両親を毛嫌いしている適度に裕福な家庭や、親子の会話がなくなってしまった慎ましい家族を知っている。彼ら親たちにはただ子供とコミュニケーションをとる時間がないだけなんだ。そういう状況では家族はバラバラになってしまう。大人の不在が当たり前になってしまうんだ。親たちは仕事に疲れて帰ってくると早い時間からベッドに入ってイビキをかき始める。子供の勉強をみてやる時間も、経験を伝えてやる時間もない。そんな家族を繋ぎ止めるものなどありはしない。いかなる場合でもだ。
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MM: 自由奔放に無謀なことをしでかす若者たちに、希望の光は見えているのかしら。
OI: 若いうちは誰でも、この世は人生を最後の最後まで生ききるだけの希望に満ちていて、人生はバラ色だと思っているものだ。『月曜日に乾杯!』で私は若者を登場させた。彼らは教養もあるし性格もいいが、(どこの国でも昔からそうであるように)祖父母を除く大人たちとまったく関わらずに生きてきた若者だ。祖父母との繋がりが両親との繋がりよりも強いんだ。『月曜日に乾杯!』に出てくるおばあさんは孫息子にとって、父親や母親よりもずっと友だちに近い存在だが、それはおばあさんには両親より時間があり、一緒にいろんなことをしてくれるからだ。この図式は世界中のどこにでも昔から存在している。祖父母が介護施設に入れられ、孫が小学校に通い始めることによって、祖父母たちが孫たちから引き離されてしまう世の中であるにも関わらずだ。さらに、朝から晩まで働く両親は子供たちのそばにいることは出来ない。家に人気(ひとけ)がなく、祖母も祖父もいなければ、子供たちはテレビを見るかゲームで遊ぶしかない。おばあさんが昔話を読み聞かせることも、おじいさんが昔の遊びを教えることも、今はもうなくなってしまった。
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MM: これは、今の生活から逃げ出すという映画でもあるわね。
OI: 今の生活から逃げ出すことは出来ないという話だ。もし別の場所へ行って幸せを見つけたいと思うなら、それは間違っている。聡明で明敏なヴァンサンは、家に戻った方がいいという結論に行き着く。他に解決策はないからだ。世界中どこへ行っても同じなんだ。“塵は結局、塵に還る”だ。
MM: 家族と暮らす家というのは、死を待つための控え室のようなもの?
OI: そうだ。船乗りという例外もいるが。船乗りに一番効くののしり文句は“お前はベッドで死ぬだろう”なんだ。彼らはベッドで死ぬよりも船と一緒に嵐の海に沈んだ方がいいと思っている人たちだから。
MM: じゃあ、あなたは船乗りに近いと感じている?
OI: 今のところはね。だが先のことは分からない。
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MM: シークエンスはどう考えてもリアリスティックではないけれど、それと同時に作品で大きな意味を持っているわね。ヴァンサンは、幼い頃の友だちで、今は女装してバーでトイレ番をしている謎めいた人物と再会するけど、この再会はあなたにとってどんな意味があるの?
OI: ヴァンサンはただ工場で働いているだけではなく、趣味で絵を描いている。彼には明らかに、結婚して家庭を持ったとき記憶から抹殺し否定しなければならなかった過去がある。そして大人になった今、偶然、幼い頃の友人と再会するんだ。その友人は不幸で極端な状況にあった。独りきりで地下室に暮らし、友だちといえば2匹のネズミだけ。食べていくために女装しているが、彼もまた、絵を描いている。ヴァンサンにも彼にも幼い頃の思い出があって、彼らはまさに長い間失われていた友人だ。恐らく2人は絵を描く夢を一緒に見ていたんだ。
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MM: なぜヴェニスなの?
OI: ヴァンサンをどこか遠くの地へ行かせようとしたとき、実際に遠くの地へ行くというのはありがちだからね。不思議な、そしてあまり遠くない場所をと考えてヴェニスにした。ヴェニスは半分が現実、残りの半分はファンタジーという街だ。ロケのために、運河とゴンドラという、いかにもポストカード的ではないヴェニスを見つけた。人々が水の上で暮らし、水の上を行き来するヴェニスだ。そこにはいつも変わらず運河がある。ヴェニスという街自体が登場人物なんだ。この街を、温かくシンプルなごく普通のもので満たせば、伝統的な装飾が消え去ってここに住む人々に与えられた運命や彼らの生活がよく見えてくる。それでも惹かれずにはいられない街だ。電車から大運河沿いに降り立つと、立ち並ぶ建築物の美しさや水上を人々が行き交う光景の不思議さにめまいすら覚える。映画監督にとってヴェニスでの撮影は楽しいものだ。水面を進む船の上から撮るシーンは車から撮るシーンとはリズムがまったく違うし、録音される音も独特だ。どんな街にでも溢れかえっている車のガタガタいう騒音の代わりに、アコーディオンやギターの音色と混ざり合って、船のモーターがうなる音が聞こえてくるんだからね。


プロデューサー、マルティーヌ・マリニャックとの談話
オリジナルプレスより抄訳