マーレン・アデ

マーレン・アデ

1976年12月12日ドイツのバーデン=ヴェルテンベルク生まれ。ミュンヘンテレビ・映画大学(HFF)で映画の勉強後、00年にヤニーネ・ヤツコフスキーと共にKomplizen Filmを設立。第62回ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞とアルフレッド・バウアー賞をW受賞したミゲル・ゴメス監督の『熱波』(13)など数々の作品をプロデュースする。
監督・脚本家としては、00年と01年に一作ずつ短編を発表後、03年にHFFの卒業制作として発表した” Der Wald vor lauter Baumen”で長編デビューを果たす。この作品が第22回サンダンス映画祭審査員賞ワールド・シネマ部門のドラマティック賞受賞、ドイツ映画賞で最優秀映画賞にノミネートされた他、ヨーロッパの各都市で開かれる映画祭で映画賞・主演女優賞などを受賞。
続く長編2作目となる『恋愛社会学のススメ』(11)では、ある一組の恋人たちとその周りの人々が織りなす現代的な人間関係を描き、第59回ベルリン国際映画祭では銀熊賞をふたつ(審査員グランプリと女優賞)とフェミナフィルム賞を受賞。世界25か国で公開され、ドイツ映画賞で3部門ノミネートを果たし、前作を上回る結果を残した。
そして、この度の長編3作目『ありがとう、トニ・エルドマン』では、第69回カンヌ国際映画祭において批評家から絶大なる支持を獲得し、スクリーン・インターナショナルでの星取りでは歴代最高得点3.7(4.0満点)を記録した。国際批評家連盟賞を受賞するに留まったことで「今年のカンヌは金を鉛にかえた」と、その大好評に反する結果に世界中で異議を唱える声が相次いだ。カンヌ国際映画祭の結果に反し全世界の映画祭を席巻し、第29回ヨーロッパ映画賞作品賞、監督賞、男優賞、女優賞、脚本賞、2016年国際批評家連盟賞年間グランプリ、第51回全米映画批評家協会賞外国語映画賞、第32回インディペンデント・スピリット・アワード外国語映画賞など数多くの賞を受賞。第89回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。

―『ありがとう、トニ・エルドマン』は極度に繊細な感受性と、喜劇的な効果のバランスの上に成り立っています。これはどうやって達成できたのでしょう。

長い執筆期間のおかげです。『恋愛社会学のススメ』が終わった直後から作業を始め、撮影に1年、編集に1年半、全部で6年かかりました。『恋愛社会学のススメ』がリアリズムだったので、次はコメディをやりたいと思っていました。この映画の繊細な側面は父と娘の物語に由来しますが、これは私にとって自然なものでした。一方、トニ・エルドマンのキャラクターは自然さの中に風穴を開けますが、私はこれがどれだけ滑稽なものになるか確信は持てなかったのです。

―ヴィンフリートとトニ・エルドマンという二重のキャラクターの発想はどこから?

私の父からです。彼はしょっちゅう、架空の人物やとんでもない状況を創造して芝居をするのです。しかも皮肉たっぷりに。あの入れ歯は私が彼にあげたものです。20歳の頃、ミュンヘン国際映画祭でボランティアをした時に、『オースティン・パワーズ』のプレミア上映のチケットと、入れ歯をもらいました。父なら使い道を知っているだろうと。家族でレストランに行った時、入れ歯をつけてウェイターの振りをして笑わせてくれました。彼にはそうしたユーモアの才能があり、それを私はずっと見てきたのです。

―イネスはなぜ異国で働いているのでしょう。

グローバル化された社会のせいで、父は娘を失うのですから、異国での撮影は必須でした。ブカレストは知らなかったのですが、知人である映画監督コルネリウ・ポルンボユと、私の共同製作者アダ・ソロモンはルーマニアの出身でした。コルネリウは企業の人たちを知っていました。そして、ルーマニアでかなり調査をし、働く女性にインタビューしました。ルーマニアには今、多国籍企業がたくさん入っているのですが、私自身はそうした企業に批判的な意識を持っていました。しかし、実際会ってみるとちゃんと話ができる、そして彼女らなりの言い分がある、人間らしい人たちでした。経営コンサルタントという仕事は実績を問われるという点で興味があったのです。コンサルタントは常に役柄を演じています。ヴィンフリートは、娘が自分を殺していることを良く知っています。彼が役柄を演じることで自分を解放するのに対して、娘は役柄を放棄することで自分を解放するというアイディアが気に入りました。

―多くの監督は、コメディは本当に難しいと言いますね。あなたの場合はどうでしたか。

コミカルな場面を撮るのは本当に難しかった。レストランの場面は丸3日かけ、徹底的にリハーサルを行いました。ペーターと私は様々なアプローチを体系的に試してみたのですが、彼にとって一番難しかったのは、いかに巧みな俳優であるかを隠さなければならないことだったのです。ヴィンフリートはトニを演じている普通の教師であって、プロではありません。そして良い役者にとって下手な役者を演じることは極めて難しい事なのです。ペーターの技術があれば、トニをもっとリアルに見せ、ドラマを高め、もっと滑稽にすることもできたのですが、トニを演じているのがヴィンフリートであって、プロの俳優ではないところからユーモアは生まれて来るわけですから、そこをうまくクリアすることが難しかったのです。

―巨大なぬいぐるみ、クケリはどこから?

ラストシーンのために、人物が丸ごと隠れるような衣装を探していたのです。この生き生きした生き物に夢中になってしまいました。私にとってこの大きくて、温かみがあって、悲しげな頭部を持つクケリは、内なるヴィンフリートなのです。それに、この着ぐるみはとても重いので、事故で命を失う可能性があります。そう、これが最期の冗談になり、彼は以後二度とふざけた真似はしなくなる、と私は考えていたのです。クケリはシナリオを書いている時、インターネットで見つけました。ホイットニー・ヒューストンの「GREATEST LOVE OF ALL」を使うことを決めたのもその段階でした。この歌は登場人物の心理状態にぴったりだと思ったのです。クラブでザンドラ・ヒュラーと試しに歌ってみたのですが、拍手喝采でした。ミキシングの際、彼女の声が攻撃的な調子だと気付きましたが、それでも見る人から肯定的なリアクションがもらえるものと確信していました。みな、彼女がこんな風に自分を表現できたことに幸福な感情を覚えるはずだからです。

―この映画は、何かが終わることに関する映画でもありますね。

親と子供の関係は、別れに満ちています。子供にとって何か新しいことが始まる時、親にとってそれは何かの終わりです。私は息子に関してそれを経験しているところです。息子は1センチ背が伸びる度にワクワクしていますが、私は物思いにふけってしまいます。
だからこの映画にも一連の別れを入れたのです。ヴィンフリートの生徒が去る、飼い犬が死ぬ、そして彼と娘は何度もお別れを言うのに、一度たりとも心温まるさよならをしたことがない。最後の抱擁は彼らにとって、そんなさよならの試みなのです。クケリの衣装がヴィンフリートを変えた。それでほんの一瞬、イネスにとって彼は子供の頃知っていた、大きくてよたよた歩く、心温かい父親に見え、彼女はかつてそうだった少女になれるのです。