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ジャンフランコ・ロージ監督
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濱口竜介監督
特別対談

「「比喩のない映画は映画ではない」と
思っているんです」
ジャンフランコ・ロージ

「『国境の夜想曲』も見直すたびに新たな発見があり、
世界の広がりを感じます」
濱口竜介

濱口竜介監督(以下、濱口): 『国境の夜想曲』を拝見し、私自身もドキュメンタリーを撮った経験がありますし、映画を作り続けている人間として、素直に驚きました。私はイラク、シリア、レバノン、クルディスタンについて、詳しく知りませんが、国境地帯に自分が連れて行かれたような心持ちになりました。

一番驚くべきことは、おそらく普段であれば明らかにしないような部分まで被写体が明らかにしていることです。ロージ監督を信頼しているからだろうと思います。彼、彼女らは自分たちの必然性に基づいてそれをしているだけですが、それがカメラの前で行われるということは驚くべきことです。ケース・バイ・ケースだと思いますが、被写体とどのようにして信頼関係を構築したのか教えてください。

ジャンフランコ・ロージ監督(以下、GR):まず私の映画は人がいて、その人が時間・尺を決め、場所と出会うことで成り立ちます。絶対的な何かが起きた場所には密度があり、そこで出会った人々は物語を動かします。その場所と個人の密接な繋がりに私は心を寄せていきます。私とアシスタントのみという少人数のクルーだからこそ、濃密な関係が築けるのです。映画作りにおいて私が一番投資しているものは“時間"です。最初の一ヶ月はカメラなしで中東に身を置きました。

国境とは曖昧な線であり、私が出会った人々が抱える葛藤、生と死もはっきりしない薄い線で引かれています。例えば松尾芭蕉のように、観察によって永遠化して情景を捉えるのが俳句であり、引き算の美学と言えます。「比喩のない映画は映画ではない」と私は思っていて、映画言語を伝える上で、俳句のように何を永遠化し提示するかを考えています。

私が訪れた地域にサダム・フセインが作った牢獄が3つあり、その場所で凄惨なクルド人虐殺が行われました。何度も足を運びましたが、はじめのうちは何も起きませんでした。フセイン政権から解放された記念日に訪ねた時、その場所で夫と息子を亡くした女性に出会いました。彼女が牢獄内を歩いているうちに、ある部屋で「息子が拷問を受けて命を落とした部屋だ」と気づきました。すると悲しみが記憶を呼び覚ましたかのように、言葉がどんどん彼女の中から湧いて出てきたのです。私は彼女の言葉を理解できませんでしたが、同じ場所で痛みを共有することで親密さが生まれました。その痛みが尾を引くような沈黙をカメラに収めたのです。

本作にはアリという少年が登場しますが、彼は世界でもっとも貧困が深刻と思われる、シリアとレバノンの国境地帯に住んでいます。1~2ヶ月間この場所に通い続けるうちに、彼が14歳にして家族全員を養っていることを知りました。アリの表情は100の言葉を並べても表現できない感情で溢れています。ある日、アリが木の下に佇んでいるときに嵐が来たのですが、脚本を書いて撮れるシーンではありません。彼の顔で映画を終えることは、将来が不明瞭な中東の姿を表しています。

濱口:ロージ監督にとってカメラを持たない観察期間が最も重要であって、そこに中東で過ごした時間、記憶、空間との関係性が蓄積されることによって、その活路が見えてくるのではと思いました。この国境地帯では紛争が背景にありますが、普遍的な暮らし・日常を撮ろうとされている気がします。人々の暮らしのルーティンを理解しているからこそ、まるでこれから何が起こるかを知っているかのようにカメラを置くことができるのだと思いました。

「光」の見つけ方も間違いなく観察によるものだと思いますが、事前にその空間の中から見つけるのでしょうか?それとも現れてくるのでしょうか?

GR:この撮影で人工的な光を作り出すのは不可能でした。かといって太陽は1時間経つと動いてしまいます。ですから、人を待ち、お互いを知り合う時間を待ち、何かが起きるまでを待ち、天気も待ちました。今回は極力曇りの時に撮っているんです。雲があれば、360度どのアングルでも撮ることができるので雲の力を借りました。中東ではくもりの天気の日はあまりありません。でも、少人数だから待っていられた。多人数のクルーでしたら、時間的、予算的余裕も忍耐もありません。

濱口:観察、そして待機の時間がロージ監督の方法論の本質にあるのだとよく分かりました。近道はなく、3年かけて、これだけのことをしなければ、これだけのものをカメラに収めることはできないのですね。
一方で3年かけて撮った映像素材を編集することは、気が遠くなるような苦労があるのではないでしょうか。

GR:撮ったのは80時間くらいなのでそこまで膨大ではありません。まず、20時間ほどに切り、そこから選択していきます。実は、この映画の撮影時に私は二度ほど誘拐されそうになました。でも、そういった経験に捉われずに、編集では何を優先すべきか判断しなくてはいけません。編集っていくらでもやりようはあるけれど、正解はひとつしかありません。

『国境の夜想曲』には6〜7の違う物語がありますが、すべて赤い糸で繋がっています。登場人物それぞれの話に加えて、空白や静寂も必要です。また、編集で気を付けるべきなのは、ひとつの話や人物に感情移入したり、長居しないことです。去りどきが重要です。登場人物に観客が深入りする前にパッとそこを去って、ミステリーは残しつつ、うまく次の話に繋げるのです。炎が太陽のように見える場面を散りばめていますが、入れ過ぎてもいけない。空白、沈黙を作り、静寂が次に繋がるようにさせる。編集には5ヶ月かかりました。他の作品は1ヶ月ほどですが、これだけかかったのは、引き算、情報を減らす時間がかかったからです。ドキュメンタリーは「答え」を与えてはいけません。観客の解釈に委ねる余地を残すことに腐心しました。

濱口:事前の観察という準備、撮影時の待機の時間、引き算による編集、そのすべてがそれぞれ繋がっているんですね。ロージ監督が真実とおっしゃった撮影素材が撮れていなければ、引き算の編集そのものが機能しないと思います。そのすべてがひとつの信念に貫かれて作られているということがわかって本当に身が引き締まる思いです。

インタビューで、「あなたの画面は本当に美しい」という言葉に対してある種の反論として「自分自身は単なるドキュメンタリーを撮っているのではなく、映画そのものを撮っている」とおっしゃっていました。実際にその通りのものができていると思いますし、自分もフィクションとかドキュメンタリーではなく、そういうものが撮りたいと思っています。

GR:『国境の夜想曲』は今までにない実験的な作品だと思います。自分が退屈したくないんです。同じことを繰り返したくないから、作品ごとにいつも色んなことを試しています。この作品では新たな映画言語を作り出すことに挑戦しました。濱口さんの作品も、脚本、言語、形式、光、編集、といったフィクションの手法だけではないものを感じます。フィクションだがフィクションでない部分がある、脚本はあるが何かそこで起きるものを変換している。それができる監督はわずかです。濱口監督の作品にはすごく強い素晴らしい脚本はあるが、それとは別のバージョンがあるような気がするのです。現場で何か生まれたならばその瞬間を融合してしまおうとするような、違う方向に行ってもそれを受容する自由度を感じます。ある意味、確固たる脚本があるからできることだと思います。

濱口:自作についてロージ監督にそのような言葉を頂いて本当に嬉しく思います。ロージ監督が一作ごとに新たに映画言語を発見しているというは本当にその通りだと思いました。『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』も素晴らしい映画でしたが、『国境の夜想曲』も見直すたびに新たな発見があり、世界の広がりを感じます。素晴らしい映画だと思います。その作り方を伺えて本当に嬉しく思います。大きな学びになりました。

2022年1月 オンライン対談にて

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