アボルファズル・ジャリリ
インタビュー

  1. 『ダンス・オブ・ダスト』について
  2. 『キシュ島の物語』について
  3. ジャリリ語録

○ 監督にとって風とは何ですか。

 悲しさを表すものであったり、誰かの話し声であったりします。タイトルの後ろに流れているのは「これから何かが起こるよ」と風が囁いているイメージです。風はいろいろな所を巡っているので、孤独な人間の声や、いろいろな言葉を運んで来ます。風の音は友人のように話をしてくれるのです。

○ 映画の中に出てくる手のお守りは何ですか。

 宗教のシンボルです。1200〜1300年ほど前に非常に悪い王様がいて、シーア派のリーダー・ホセインが、たった70人ほどで王様を倒しに3万人と戦いに行きました。どう考えても負け戦でしたが、悪い王様は倒すべきなので、闘わなければなりませんでした。2つの大きな川のほとりに壁を作られ、みんなは水が飲めなくなりました。ホセインは子供に水を飲ませたいと思い、川に行きました。その時、矢に射抜かれて手が落ちました。その伝説により、“手=水”というシンボルの構図ができたのです。でも、『ダンス・オブ・ダスト』の中で、村の人々は「雨よ、降らないで」と手のお守りに祈ります。イリアは「雨よ、降れ」と祈ります。大勢と一人の少年の願い事のコントラストをより強く出す為に、本来水を祈るべきものに対して、雨が降らない事を祈る村を描いたのです。神様はみんなの願いよりも一人の願いを聞きます。何故なら、神は愛を好むからです。雨が降れば気温が下がり、リムアの熱は下がる。イリアの仕事は無くなり、リムアも去ってしまうけれど、イリアはリムアの病気が治ることを祈ります。煉瓦を踏んでつぶしているのは、犠牲の精神を表しています。

○ 何故セリフのない映画にしたのですか。

 幾つか理由はあります。一つに、映像のシンフォニーにしたかったからです。知らない国・言葉でも音楽を感じることはできる。前に日本に来たときに、カラオケに連れて行かれたましたが、歌詞は関係ありませんでした。知らない曲であっても、桜を見て一瞬いい気持ちになれるのと同じです。以前は映像の方が音よりも重要だと思っていました。でもある日、事故の音を聞いて、事故を見に行って以来、映像よりも先に音が来るのだと思うようになりました。また、セリフを無くして映像の強さでピュアな恋を出したかったのです。あと、祈りとは神との会話で、とても個人的な対話です。人に聞かれたくないものなのです。それも、字幕をなくした理由の一つです。
 ロカルノ映画祭のディレクターに「タイトルも字幕もなにも入れないで欲しい」と頼んだら、「そんなことをしたら、みんな席を立ってしまうから、挨拶のときにストーリーを話せ」と言われました。でも、「愛のこだまを伝えたかった。僕の映画は普通じゃないかもしれないけれど」としか、挨拶では言いませんでした。ディレクターは怒って、「一緒に出口で観よう。きっと沢山出て行くから」と言い、2人で一緒に出口で観ました。すごく怖かった。席を立ったのは3人でした。終わってから「3人出た」と言うと、「その3人はトイレに行って戻っただけ」と言われ安心しました。イランには「心から出た言葉は心に染み込む」という諺があるのです。

○ 出演者について

 私が現場に連れてきた人たちで、実際の季節労働者ではなく、百姓、店員、など様々な職業の素人です。イランの訛りは何を言っているのか分からなくてもちょっと聞けば、大体どこの人だか分かります。私の言っていること(標準的なペルシャ語)は出演者達に伝わっていたようですが、相手の言葉はわかりませんでした。同じ「雨よ、降らないで」も分からないときがありますが、気持ちで分かるのです。見た目でどこの人かもよく見れば大体分かります。イラン国内は、北・・・ヨーロッパ、南・・・黒人、東・・・日本・中国系、西・・・私みたいな感じ、南東・・・パキスタンぽい人 といろんな感じの人たちがいます。映画を無国籍な感じにしたかったのです。
 クルド人の多いところでロケをしました。頭がおかしいくらいの人をいつもいいな、と思ってしまいます。英語を話している人はイラク人です。頭がおかしいように見えて、他の人たちよりも進んでいるのではないだろうか、と思っています。

○ 上映禁止についてどう考えていますか。

 『ダンス・オブ・ダスト』は他の作品よりもメタフィジックなので上映禁止は本当にストレスになりました。イランで有名な記者の人が居て、その人は子供の頃から足が無く、走ったことがありませんでしたが、「『ダンス・オブ・ダスト』を観て走った気分を味わった、いい気分になった」と言われ、すごく嬉しかったけれども、悲しくもなりました。こうやって映画を通して、人を助けることができるのに、縛られているのが悔しかったのです。
 クルド人を使っているから上映が禁止になったわけでは絶対にありません。迷信的な所があるせいで禁止になったのではないかと思います。みんながお祈りしていた手の形のお守り(迷信)を盗む、それが反体制的ととられて上映禁止になったのかもしれません。
 『ダンス・オブ・ダスト』はたまたま外国人の友人達にビデオなどで見せていて、ロカルノやベネチアの映画祭から要請が来ていました。海外からのプレッシャーで1998年に映画祭に出すことができたのです。

○ ロケ地・煉瓦について

 火・風・土・水の全てがある所を探して撮影しました。神はこの四つを使って全てのものを創ったからです。土と水を混ぜ、風で乾かし、火で焼いて固める煉瓦。煉瓦は濡れると強くなります。井戸に落とされたことでより強くなり、かつ浄化されました。神は人間を土から創りました。人間は死ぬと土に戻ります。その繰り返しです。イスラムの考えで命は終わらないのです。

○ 主人公(イリア)について

 土からできているような感じで、声のいい男の子を探しました。Laboで「煉瓦を削ったみたいな子供」と言われ、成功したと思いました。主人公は北東の煉瓦工場で働いていた男の子でした。『ダンス・オブ・ダスト』には、子供でありながらも生活の重さで老いてみえる子が必要だったのです。

○ ヒロイン(リムア)について

 ロケハンをしているときに煙突のある町に辿り着きました。私たちを見つけると、ポスターの写真のように丘にのぼって主人公を演じた女の子が「知らない人が来たー!」と叫んだようでした。私には彼女の言葉が分からないので、雰囲気でそう言ったのだと思いました。その子の顔を見ると、お風呂から出たてのような清潔感のある綺麗な顔をしていたので、非常に彼女に惹かれました。それで、この映画のストーリーがほとんど決まったのです。

○ 監督にとって『ダンス・オブ・ダスト』とは。

 新しい満ち溢れる愛の物語です。姿・形ではなく、心に恋をした話。その方が心に残るのです。外見の印象はどんどん薄くなって消えてゆきますが、心は日が経つにつれ、もっともっと深くなります。誰かを好きになる、その気持ちを伝える、yes/noは関係ない。愛・尊敬で一生、生きていけるのです。その素敵な気持ち、いい匂いだけで。
 『ダンス・オブ・ダスト』には内面的な力があります。ポジティブなエネルギーが得られるはずなので、何度でも見てエネルギーを手に入れて欲しいと思っています。そして見た意見を私に言って欲しいです。