――35mmからデジタル撮影への以降で、製作過程に影響はありましたか?
年をとると仕事の方法論を変えるのは難しくなってくるものだが、今回はそうではなかった。映画をデジタルで撮影するという変化には、非常に前向きな気持ちでいる。この撮影法の中に、自分のやり方を見出せてうれしい。もちろん、卓越したスタッフのサポートがあってね。具体的には、ワイドショットにもっと簡単に頼れるようになった。以前は背景にフォーカスを得るのに心を砕いていて、不安も感じていた。私はディープ・フォーカスや奥行きがあるのが好みで、デジタルカメラでは、全体的なシャープネスが達成できるので素晴らしいと思っている。
――セールスマンに特別な愛着があるようですね。映画の主人公が、十字架や冷蔵庫を売っていたり、『さよなら、人類』では面白グッズを売っていたりしています。ある種の自画像なのですか?
ある意味では。私の幼少の頃、家族がものを売っていたことからきています。セールスマンでいるのはとても普遍的なことで、人生というのは大体そういうことだと思います。販売とマーケティングは、文明社会の実質的な基盤だといえます。ファンドとテレビ局に、これが興味深く重要なことだと説得するつもりです。私自身もセールスマンですし、皆そうです。自分たちを売り込んで、自分の商品やアイデアをアピールしなければならないですから。
――二人(サムとヨナタン)の関係性は対等でなく、抑圧者vs.虐げられる人々、というより大きな宇宙をも表現していますね。
その対立の構図はますます明確になってきています。社会が徐々に結束を失っています。近頃は自分のことだけ考えて、他人を抑圧して自らの利益を増やすように期待されている。私はこの振る舞いの恐ろしい帰結についてあえて考えないようにしています。最悪の事態であり、疎外であり、若者は完全に不信感に苛まれてしまうでしょう。屈辱は嫌いです。他の人が恥をかかされているのを見るのも、自分が恥ずかしい思いをするのも。ある意味、私の映画はすべて屈辱について描いています。私は労働者階級に育ち、親類が上司の前で、権威への過度な敬意から言葉を発せず、罪の意識を芽生えさせるだけだったのを見てきました。人生において、すべて経験してきたからこそ、私はそういったことと戦おうと決めたのです。
――広い構図と据え置きのカメラ、1シーン長回し、というご自身のスタイルを続けていきますか?
そうですね。この方法で、登場人物を疎外するのではなく、その人を取り囲んでいる宇宙の中に配置することができます。物語をスピードアップするために常にカットが変わるような映画は観ることができません。私がこのような視覚的価値を採用するのは、もっとオープンで民主的な構図を取るための空間を作りたいからです。私がたまに引用する、ブルデューの生徒であるロイック・ヴァカンというフランス人社会学者がいます。アメリカで客員教授を務め、フランスに帰国した際、アメリカ的な現象として彼が指摘したのは「明晰な思考力への敵意」でした。反対に、私は自分の作品の構図は明晰な思考を志向していると考えています。すべてがそこにあり、十分に光が当たっている。スタッフとともに、「明晰な思考力への敵意」に抗議しようとしています。